乱歩地獄 シン・ゴジラ ダンケルク映画「乱歩地獄」に思う自主映画界の鬼才、S氏が出演している「乱歩地獄」の切符を同氏からいただいたので、過日上映されているシネセゾン渋谷に行ってきた。 この映画はオムニバス形式で4監督による4篇の作品から成っている。氏は「蟲」(カネコアツシ監督)の最後のシーンで警官役として出演しているが、4作品とも浅野忠信オンパレードなので彼の出番は少ない。ただし、彼の怪演はこの作品でもきっちりとなされており、渋谷まで出て行った甲斐があった。 併し、この映画の評価はまた別である。実相寺昭雄監督の「鏡地獄」は一定以上の水準ではあるものの、他の3作品は失敗作と言われても仕方がない。 けだし、江戸川乱歩の世界はこころの世界であり、皆のこころはそれぞれ違うのである。おいらの好きな「うつし世は夢、夜の夢こそまこと(江戸川乱歩)」を映像で表すのは、やはり難しい。 映画「シン・ゴジラ」を観た 上映中の映画「シン・ゴジラ」の評判が悪くない。 どういう評判かというと、圧倒的なリアリティだというのである。興行成績もよく、リピーターも多いらしい。 実際、この連休に観に行ったのだが、午後4時からの部は満席であった。ぎりぎりの時間に映画館に到着したおいらには最前列の席しか残っていなかったのである。ま、お蔭で迫力満点の画面にはなったが…。 さて、この映画、前半のリアリティは流石である。ぐいぐい引き込まれた。評判どおり、一気に観させる力を持っている。 ネタバレになるのを避けるために詳しくは書かないが、これまでのゴジラ作品は第1作(昭和29年)の金字塔を別にして、娯楽映画であった。 しかし、この作品は社会派の作品に仕上がっており、東日本大震災による原発事故への不安や今後懸念される尖閣諸島での有事などを巨大不明生物(ゴジラのこと)に置き換えたものとして製作した狙いは当たっていると思う。 惜しむらくは、台詞に説明が多い(情報量が多い)ことと、後半が活劇になってしまい、これでもかこれでもかと破壊シーンが続くので映画が平板になったことだ。 東京が壊滅状態になることを予想させる前半だけで終わっていても十分映画になっていたはずで、ムリにつじつまを合わせようとした後半のストーリー展開は勿体ない。 余談だが、この映画のリピーターが多い理由は情報量が多すぎるので(映画のテンポも速い)、二度観ると一度目では不明だったことも氷解するかららしい。 この映画には、もう一つ云わなければならないことがある。それは、なぜ、この映画の巨大不明生物がゴジラであるかの必然性が今一つ判然としない点である。 第1作目のゴジラは水爆実験による第五福竜丸の被曝へのアンチテーゼが色濃く出ていたが、この映画では福島原発事故が全く取り上げられていない。だから、この映画のゴジラに魅力がない理由の一つになっているのかも知れない。 しかし、そうは云っても見所満載の映画には違いない。特にゴジラの襲来に対して自衛隊の攻撃が(現行法規上)どこまで可能かなどの政府内での議論には一見の価値がある。 また、有事の際に政府がどういう対応をとるかの流れが綿密な取材に基づいて作成されており、そこも面白い。そういうことも含めて、ご興味のあるお方にはお薦めの映画となっている。 映画「ダンケルク」の衝撃(前篇) そろそろ空いている頃だと思い、映画「ダンケルク」を観てきた。 先月観た「関が原」の予告編の上映で、これは只者ではないという印象を受けていたからである。 だけどねぇ、ダンケルクであったことって日本人は誰も知らないはずだよ。教科書にも載っていないだろうし。 もっとも、現代史は教科書には記述がほとんどないからなぁ。 さて、おいらは予備知識なしにこの映画を観た。 もっとも、英仏連合軍がドイツに攻められて逃げ場がなくなったこと、例えば、織田信長が浅井長政によって袋のネズミになったように絶体絶命の状況ということだけは理解していた。 しかし、当初は、ダンケルクと聞いてその発音から場所がドイツだと思ったほどである。 調べてみると、ダンケルクはフランス北東部のベルギーの国境近くの海岸にある町で、すでにベルギーとオランダとルクセンブルグはヒットラーの率いるドイツ軍によって哀れ陥落していたのである。 そのドイツ軍は戦車やメッサーシュミットなどの最新兵器によって英仏連合国軍を包囲し、英仏連合国軍40万人の兵士は後ろがドーバー海峡しかないところまで追い詰められたのである。 この兵士たちをわずか10日間で脱出させるという不可能なミッション=「史上最大の撤退作戦(コードネイムはダイナモ)」を描いた映画である。 おいらは中学生時代に観た「The Longest Day(邦題・「史上最大の作戦」。どうでも良いことだが、この邦題を考えたのは水野晴郎である。あっぱれ~)」を思い出したね。 壮大な映画で、連合国軍とドイツ軍の動きを時間進行させながら対比させ、三島由紀夫がこれぞ映画の作り方と云わしめた記憶がある。 だから、ノーラン監督がこの史上最大の撤退作戦をどう映画に創るのか興味津々で映画館に足を運んだのである(この項続く)。 映画「ダンケルク」の衝撃(後篇) さて、ノーラン監督がこの映画をどう創るのか。 一番無難な方法は、ドキュメンタリー形式にして起承転結のストーリーにすることである。 しかし、それでは神の視点から観た歴史映画にしかならない。客観的な映画となり、感情移入がしにくくなる。 だから、ノーラン監督は主人公を複数創り、それぞれの眼から観た撤退を描くことに成功した。 次に、最初の3分をどうするかである。 これはもう見事としか云いようがない。あっという間の99分の映画で最初のシーンから目は釘付けとなる。 しかも、CGを使わないのである。 だから、映像が嘘くさくない。 戦闘機スピットファイヤーや駆逐艦も本物を復元させるのである。だから、臨場感がまるで違う。 スピットファイヤーのコックピッドも当時のものと同じだから、よくもまあこんな戦闘機で戦っていたなぁとおいらが戦闘機を操縦している気にさせられるのである。 そして、映画の中身である。 チャーチルが撤退を決意するのだが、こういうときに国は何もできない=してくれないのである。兵士でさえ、満足な撤退をさせることができないからこういう映画ができるのである(戦争でまっ先に見捨てられるのは国民である)。 こういうときに味方になってくれるのは、最後はヒトである。この映画では、自分の命を顧みることなく味方を助けようとする、心意気のある男たちが多く登場する。 それがこの映画の最大の見どころである。 結論から云えば、大満足。 しかも、戦争は二度と起こしてはならないということもしっかりと教えてくれる映画である。今年度のオスカーに決まってもおかしくはない。 最後に残念だったことを付け加えておく。観客の数が少なかったことである。平日の昼間ということであってもガラガラ。男しか出てこない映画だからなのか。それにしても、これだけはいただけない(この項終り)。 隠れた愉しみ、グライダー気分 グライダーと云われても、あまり興味はない。 いや、なかったというのが正確な表現だろう。 なぜこのようなことを書くかというと、昨年、映画「ダンケルク」を観たからである。 トム・ハーディの操縦するスピットファイヤがガス欠になったのだが、グライダーのように操縦しながら縦横無尽の活躍をしたのである。 グライダーの動力は、理論的には上から下へ滑降する力のほかには風しかないはずだからあれだけの活躍はできないはずだが、ま、それはトム・ハーディだから許すとしよう。 しかし、ここで云いたいのは、それでおいらがグライダーに乗りたいと思ったことではない。 車を運転していて、相当前にある信号が赤になると判断できた場合には、アクセルを踏まないばかりかギヤをニュートラルに入れるのである。 そうすると、車輪にはエンジンブレーキがかからないので面白いように車は前に進む。これがおいらのグライダーに乗っている気分という分けである。 実はアクセルの踏み方には、均等に踏み続ける方法と一定の速度に達したらアクセルを離して走行する方法がある。 一定の速度に達したらアクセルを離して走行する方法は燃料の節約が目的らしいが、貧乏たらしい運転なのでキライである。 ところが、このニュートラル走行は気持ちがよいのである。 無論、エンジンブレーキがかかっていないので坂道では厳禁である。だが、平坦な直線の道であればあたかもグライダーに乗っているような気分になれるのである(無論、信号が赤になれば、ギヤはドライブに戻す)。 自宅から遠くないところにかなりの直線走行ができ、信号が先にある場所を見つけたので、おいらはそこでグライダー気分を密かに愉しんでいるのである。この走行は、痛快である。 でも、これを読んだ人は皆、おいらのことをモノ好きだと思っているだろうなぁ~。 誰か、この気持ちを分かってくれる人はいないかなぁ~。決してモノ好きではないんだよぅ~。隠れた愉しみなんだよぅ~。 |